吉本新喜劇で看板座長だった木村進(きむら・すすむ=本名同じ)さんが19日午後3時14分、腎不全のため、大阪市内の病院で亡くなっていたことが20日、分かった。68歳だった。
おばあちゃん役を得意とし、間寛平(69)との名コンビで新喜劇の一時代を築いた。87年に3代目博多淡海を襲名。全国興行最終地の故郷・福岡で脳内出血のため倒れた。後に主宰劇団を立ち上げ再起していた。通夜は21日午後7時、葬儀は22日午前11時30分から、大阪市都島区の「コスモール都島」。喪主は妹の木村龍子(きむら・たつこ)さん。
二枚目の顔をゆがめて、にやけながら「イーッヒッヒッヒッヒッヒ…」。70~80年代の吉本新喜劇で一世を風靡(ふうび)した「進ちゃん」が亡くなった。
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二枚目の顔をゆがめて、にやけながら「イーッヒッヒッヒッヒッヒ…」。父譲りのおばあちゃんネタを武器に、70~80年代の吉本新喜劇で一世を風靡(ふうび)した「進ちゃん」が亡くなった。木村さんは長年の大量の飲酒や、あぶら物好きなど不摂生から、88年に脳内出血で倒れ、左半身が不自由になり、車椅子生活だった。
後に「木村進劇団」を立ち上げていたが、10年ほど前に骨折して以後は療養に努めていた。親しい関係者は「骨折してからは、なかなか動けなくて、仕事を完全に休業したと聞いた」と話しており、毎正月など定期的に寛平が見舞い、励ましてきたが、2度目の再起はならなかった。
木村さんの父、2代目淡海は、松竹新喜劇で故藤山寛美さんの名相棒で喜劇役者として成功。ただ、木村さんは父に反発し、19歳のときに、ライバル社の吉本へ移った。持ち前の喜劇センスを発揮し、23歳の若さで、座長へと出世した。
二枚目俳優だったが、芸風は典型的なボケ。1カ月で60本の番組をこなすなど、新喜劇の顔だった。ありもしない水たまりをひょうきんなしぐさで飛び越えるギャグも特長。名コンビとなった寛平の人柄、舞台度胸を気に入り、引きあげたのが木村さんだった。
80年代半ばには新喜劇の世代交代が図られ、木村さんは3代目淡海を襲名。87年から全国襲名興行を回り、最終地だった故郷の福岡で倒れた。左半身にまひが残った。その後、夫人とも離婚。95年に阪神・淡路大震災を経験して再起し、劇団を旗揚げ。病院や福祉施設で慰問活動を行った。
笑いのテンポ、間は健在で、晩年はことに、客席に問い掛けつつ、観客を取り込んだ新たな笑いを作り上げた。木村さんの復活を支えたのが寛平。「何も芸のない僕を、進ちゃんが引きあげてくれた」と恩義を忘れず、今年も複数回、見舞っていたという。01年には、寛平主演のNHKドラマ「悪意」に、木村さんが出演したこともあった。
寛平が、ヨットとマラソンで地球一周するアースマラソンを敢行し、12年1月にゴール。木村さんは「昔から寛平は、ボサーッとしているかと思ったら、突然思いもよらないボケをしたりしていた」とねぎらった。休養中ながらも、盟友を出迎える絆の固さを見せていた。【村上久美子】
◆木村進(きむら・すすむ)本名同じ。1950年(昭25)7月29日、福岡生まれ。16歳のとき淡海劇団に入り、19歳で吉本へ。23歳で吉本新喜劇座長に昇格。ボケもツッコミもこなし、風貌から二枚目役も得意。盟友間寛平との名コンビは大人気となった。87年に初代の祖父、2代の父にならい「3代博多淡海」を襲名。興行中の88年、脳内出血で倒れた。左半身の自由を失い、吉本を退社。療養に専念していたが、99年に寛平のはからいで在阪テレビ、舞台に復帰。「木村進劇団」を立ち上げた。
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201905200001008.html
2019-05-20 13:42:00Z
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