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元彌語る「仕事重複」の真相 - au Webポータル

「今も行き過ぎた取材だったと思っていますよ」20年前の大騒動を乗り越え、和泉元彌(49)が掴んだ“充実の今”〉から続く

 決められたスケジュール通りに動いているはずが“ダブルブッキング”と面白おかしく報じられ、納得いかないまま過ごしていた日々、和泉元彌を救ったのは伝説的なレスラーのかけた言葉だった。そしてその縁がハッスル参戦へとつながり…。

【画像】和泉元彌(49)がハッスル参戦を決めた“伝説的レスラー”

 室町時代に生まれたエンターテインメントが平成生まれのエンターテイメントと融合した奇跡のタッグを振り返る。(全3回の2回目/1回目3回目を読む)

◇◇◇

ワイドショーで繰り返し取り上げられた“ダブルブッキング”騒動の真相

――2002年にダブルブッキングと呼ばれる出来事が2回ありました。今振り返ってどう思いますか?

和泉 ダブルブッキングではなくて、掛け持ちがあったということですね。

――あらかじめその通り予定を組まれていたと?

和泉 そうです。現地のスタッフ、公演スタッフ、テレビ局の方、エージェントが話を通してこの形で移動すればOKだと言われている状態で、自分はそのルートに乗って移動したんです。

©杉山秀樹/文藝春秋

 一人でも多くの方に狂言を見て頂きたい、普段狂言に接する機会の少ない方にお届けしたい、そう思って岡山から東京へ、そして岐阜から東京へヘリコプターや小型ジェット機で移動しました。間違えて同時刻に別の場所の仕事を入れてしまったわけではありません。

 それなのに“ダブルブッキング”として世の中では面白おかしく騒動になってしまった。もちろん自分の責任じゃないというつもりではありません。周りの人に「スケジュール通り動いています」とちゃんと伝わらなかったのは、自分の不甲斐なさだと今も思っています。

 乗ったことがある方ならお分かりかと思いますが、ヘリコプターや、ビジネスジェットを急に飛ばすことなんて不可能なんです。運営している会社に申込をして、安全を確保しない限り飛べないんです。ですからダブルブッキングで慌ててヘリをチャーターした、ということはありえません。自分はヘリコプターやジェット機の知識もないですが、事前にスケジュールを組んで頂いています。

 天候も考慮していましたし、万が一飛ばなかった場合も想定していました。新幹線で行けるルートをヘリコプターやジェット機で行くのは通常の手段ではないですが、それがなければお受けできない公演も出てきてしまうほど、当時は公演数が多かったです。

私たちの車が走り出すとマスコミの車とバイク30台くらいが一斉に…

――話題になったのか、2回目の岐阜~東京では1回目以上に大きく注目されていました。かなりの騒動になっていましたよね。

和泉 とんでもない状況でした。芸能マスコミ報道としても今では考えられない状態です。岐阜の公演が終わってから名古屋空港に向かい、そこからヘリコプターを飛ばして羽田空港に向かう予定だったんです。ただ、朝の時点で名古屋空港も羽田空港もマスコミの数がすごいことになっていたので、ヘリコプターを飛ばすのも安全を確保できるかどうか。ということで、急遽、離陸場所の変更をヘリコプターの運営会社が判断されたほどです。

――名古屋空港から約1時間後に羽田空港に着くと、かなりの数の取材陣がいたそうですね。

和泉 私たちの車が走り出すと30台くらいの車とバイクが一斉にスタートしたんです。私たちの車の横をバイクが並走したり、何台もの車に囲まれました。私たちは決められたルートを走っているだけなのですが…。テレビでは面白おかしく映っていたかもしれませんが、気が気じゃなかったです。あの時ばかりは、報道陣の皆様の無事を祈ったほどです。

――約1時間後、新宿コマ劇場に着いてから楽屋までスムーズに移動できましたか?

和泉 周りのスタッフに守って頂けたので、自分がもみくちゃになることはなかったですが、周りも騒然としていましたね。そんな過熱報道は各地であり、テレビには映らなかったかもしれませんが、姉は空港で報道陣にカートごと押し倒されて怪我をしましたし、お客さまにもご心配を掛けてしまって。

 実際は普段の入り時間より結局1時間も早く新宿コマ劇場に入れたんです。テレビのコメンテーターの方は、2時間前から劇場に入って公演の最後までいるものだと仰る方もいましたが、自分たちは2時間前から入る習慣も元々ないですし、公演によっては自分の出番が終わったら帰る人も普通にいらっしゃいます。人それぞれだと思いますが、そのような方々を遅刻、早退と言うことはありません。

――舞台への影響はありましたか?

和泉 そこはプロなので楽屋に入ってすぐ切り替えました。それこそ舞台の裏を走り回って数十秒後には再び舞台に登場しているとか、早着替えも当たり前の世界なので。舞台に影響がでるのなら組んではいけないスケジュールだと思います。

 僕が不本意だと思うのは、あそこまで追いかけられても舞台の映像が一切出なかったことです。結局マスコミが興味を持っているのは、何の為の行動なのか? ではなく、面白く報じられる移動している画だけなんだなって思いましたね。

スケジュール管理をしていた人はいったい誰だったのか?

――当時、お母さまを中心にスケジュール管理されていたのでしょうか?

和泉 母だけではありません。エージェントを含めて3、4名で連携して、OKが出たスケジュールで動いていました。あのとき母が矢面に立ちましたが、当時母は60歳。今まで人生を着実に歩んできた人が騒動に巻き込まれて、母にも申し訳ないことをしたと思います。

――ダブルブッキング騒動でバッシングを受ける最中、ハッスルにも出場されました。会場に登場する際、「ダブルブッキングでも遅刻でもござらん。開場前からずっと上で待っておったのじゃ」と叫んで、ヘリコプターの爆音と共に派手な着物で登場。こちらは和泉さんが考えた言葉ですか?

和泉 はい、ハッスルの運営スタッフの皆さんと共に。悪ふざけしたわけではありません。世間的には遅刻とかダブルブッキングを繰り返すと思われているかもしれない。でも、本当はそんなことではないという事実を共有して、真実が報道されないなかで、正面切って「今日は2時間半前から実は屋上で待ってたよ。本当のことなんて何も見えてないじゃない」と、世間に言ってください! と、少しの風刺も込めてそんな文言になりました。誤解をいたずらにネタにすることは不謹慎と受け取られかねないので、よくよく相談した上で決心しました。

――そもそもどのような経緯でハッスルに参戦されたのですか?

和泉 僕の大学時代の同級生が、ハッスルの制作会社にいて声を掛けてくれました。

 ただ、その前にプロレスラーで2005年にお亡くなりになった橋本真也さんとの出会いがありました。

 たまたま生前、橋本真也さんと飛行機で隣り合わせになって1時間半くらいずっとお話する機会がありまして。熊本から東京に向かう飛行機で、「最後の搭乗のお客様をお待ちしております」とアナウンスが入り、誰だろうと思ったら橋本真也さんでした。

橋本真也に言われて救われたこと

 それがまさに僕がバッシングを受けていた時期。橋本さんに「すみません」って声を掛けられて「見ています」と。お互い挨拶が続いた後、橋本さんがこう言ったんです。

「すごいバッシングを受けられていて大変な時期だと思いますけど、本当に強い人とはあなたのような人だと思います。世の中にあることないこと言われても、テレビに映る元彌さんは常に姿勢が変わらない。自分は新団体を立ち上げましたが、トップに立つ人間になると、他人に全てを伝えられる訳もなく、理解してもらうのも無理です。

 すごく大切にしている奥さんには何でも話すけど、それでも話しきれないこともある。でも自分はトップとして周りを引っ張っていかないといけない。重みは全然違うけど、必ず人にわかってもらえる日がくると思うし、その思いを抱えて今も立ってらっしゃるのがわかる。本当に強いと思います」と言ってくださったんですね。

 ほかにも真也さんの修行時代の話を聞かせて頂いたり、自分も4歳からプロの舞台に出ている話をしたり、同じ四角い舞台ですねって。いろいろお話を聞いてお互いに「今度、観に行きます!」と言ってお別れしてから1年半後、真也さんは病気で亡くなってしまいました。

 僕がハッスルのオファーを受けたのは橋本さんが亡くなった後。相変わらずマスコミも賑やかでしたが、オファーされた日程が、本来橋本真也さんが復活するはずの大会の日だったんです。10年後、自分がもっと成長して周りも落ち着いて、そのときやろうかなと思うのだったら、今がやる時! 未来にやっていいことは今やってもいい。

 逆に今やってはいけないことは未来でもやってはいけない。真也さんと「何か一緒にやりましょう!」と言っていたことが、一緒にはできないけれど、このような形でお弔いになるならと思い切りました。

 また、大学の同級生からハッスルの打診をされて、まずは大阪城ホールに試合を観に行ってみたら、まさにエンタメプロレスでした。子どもたちの特撮ヒーローがリングで戦っていたり、キャラクターが立っていたり。自分が小さい頃は地上波放送でプロレスが観られる時代だったんですよ。父もプロレスが好きで後楽園ホールも一緒に行っていたので、元々プロレスは身近にありました。またその日は、亡くなった方に対して追悼のゴングを10回鳴らす「テンカウントゴング」が橋本選手のために行われていました。大阪城ホールに集まった人たち全員で黙とうをささげている様子を見て、素敵な世界だなと思いました。

賛否両論だったハッスル参戦を今振り返ると…?

 観戦が終わって会場を出るときに同級生から改めて「平成に生まれたエンターテインメントのステージで、狂言は何ができますか?」とオファーされ、「室町時代に生まれたエンターテインメント・狂言が存在感で負けることはない。ただ、できるという判断と、やるという判断は別なので、改めて相談させて」と返事をして別れました。後日、一番に狂言は傷つけられない。自分の体も傷つけられない。それが確保された上ならとお引き受けしました。

――ハッスル出場に関して、周りの反応はいかがでしたか?

和泉 当日までプロレスファンの方からも「プロレスをナメている!」とか色々言われましたが、試合後は最高なエンタメだと1万5千人の観客の皆様から拍手を頂きました。

 もちろん全て好意的な意見ではなく、賛否両論だったと思います。「見事にやってくれた!」「狂言のパフォーマンスを見て印象がひっくり返った!」という声もあれば、「和泉元彌、プロレスに転向!」「狂言師をやっていけないから転向」と週刊誌にも書かれましたが、それってプロレスラーにも失礼ですよね。

 そもそもプロレスだったら無理ですよ。ハッスルというある種エンターテインメントの枠組みの中で、自分が今まで表現者として培ってきたものでなにができるか。10分ほどの対戦でしたが、皆さんと相談して試合を組み立てました。鈴木健想さんという対戦相手にも恵まれましたし。

 色々な意見や見え方もあったと思いますが、なんとなくその後から、和泉さんにしかできない、何か楽しいことをやってくれるよねという感じのことは言われるようになりました。

「公認ですか?」「いえ、正式に非公認です」和泉元彌(49)があの超人気芸人の顔マネを見て「許さない」とつぶやいた“真意”〉へ続く

(松永 怜)

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2024-05-11 02:10:00Z
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